2016年6月17日金曜日

タケニグサで竹を煮てみるべきではないのか

図鑑か何かに
「タケニグサで竹を煮ると
 柔らかくなる、という言い伝えがある」
というようなことを書いてあったのをみて
「今は子供だから竹も手に入らないし
 火も使えないが
 大人になったらやってやろう」
と思った。

大人になってみたら
強いアルカリでもあればこそ、
竹は煮ても柔らかくなりそうにないし
そもそもムダでめんどくさいから
タケニグサで竹を煮ようとは思わなくなった。

ちょっとくらい叱られても
子どものうちに
タケニグサで竹を煮ておけばよかった。

自身の死を自覚して
死ぬ前に、
子どもの頃気になったことをやり遂げた
「増賀聖人」のことを思い出す。




「多武峰増賀聖人語(今昔物語)」

…聖人、既に入滅の日に成て
…「我れが死せむ事、今日也。但し、碁盤取て来れ」
と云ければ…此れは物に狂ひ給ふにや有らむ、と
悲く思ゆれども
…云ふ事に随て、寄て盤の上に石十許、互に置く程に
「吉々し、打たじ」と云て、押し壊つ。

…「此れは何に依て碁は打給ふぞ」と、
恐々づ問へば、
「早う小法師也し時、
碁を人の打しを見しが…心に思ひ出られて、
『碁を打ばや』と思ふに依て打つる也」
と答ふ。

…「泥障(あふり)一懸求めて持来れ」と云へり。
…「其れを結ひて聖人の頸に懸よ」と云へば、
云ふに随て、頸に打懸けつ。

聖人、糸苦し気なるを念じて、左右の肱を指延べて、
「古泥障を纏てぞ舞ふ」と云て、二三度許かなでて、
「此れ取り去(のけ)よ」と云へば、取り去けつ。

…「此れは何にかなで給ふぞ」と恐々づ問へば、
答て云く、
「若かりし時…一人の小法師、泥障を頸に懸て…歌て舞しを、
「好まし」と思ひしが…「其れ遂む」と思てかなでつる也。
今は思ふ事露無し」
と云ひて、
人を皆去けて室の内に入て、
縄床に居て、口に法花経を誦し、
手に金剛合掌の印を結て
西向に居乍ら入滅しにけり…

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